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2020.7.23

オットマー・ヒッツフェルト:ドルトムントは真実の愛

オットマー・ヒッツフェルト:ドルトムントは真実の愛

ウド・ラテック(ブンデスリーガ優勝8回、欧州カップ戦優勝3回)とオットマー・ヒッツフェルト(ブンデスリーガ優勝7回、チャンピオンズリーグ優勝2回、クラブワールドカップ優勝1回)のどちらが『ドイツサッカー界で最も成功を収めた監督』の称号にふさわしいか、学者たちは何時間も議論することができるはずだ。しかし二人の驚異的な成功を考えれば、その議論は不毛なものだろう。ヒッツフェルトのドイツでの指導者としての道のりは1991年にドルトムントで始まった。成功を追い求める名将が計7回獲得することになるドイツ王者のタイトルを初めて手にしたのは、その4年後のことだった。

 

ヒッツフェルトの成功の歴史を振り返る前に、彼が数学と物理学の教員資格を持っていることに触れるべきだろう。ボルシア・ドルトムントにとって1963年以来となったリーグタイトルを獲得した1994/95シーズンを回想するこのインタビューのために、彼はきれいに手書きされたメモをそばのデスクに置いた。71歳の名将の情熱は、1991年から1997年までボルシア・ドルトムントを率いていた時から変わらない。その間にクラブはブンデスリーガ優勝2回、UEFAチャンピオンズリーグ優勝1回、さらにブンデスリーガとUEFAカップの準優勝も達成している。同時にヒッツフェルトは病と闘う辛い時期も過ごしたが、幸いにもそれは既に過去のことになっている。現場を退いてからの6年間を、彼は「人生最高の期間」だと言う。

 

1995年のリーグタイトルはあなたにとってどのような意味がありましたか?

95年は私のキャリアの中で最高のタイトルだったよ。私にとって初めてのドイツ制覇だったんだ。そしてドルトムントにとっては32年ぶりだった。あの時の幸せな気持ちは決して忘れないだろう。誇りと安堵が混じって、クレイジーだった。珍しく泣いてしまったね。全てのプレッシャーが消えたんだ。ユニークで非常に大きな体験だった。

 

優勝にもっと早く手が届く可能性もありました。3年前のBVBでの最初のシーズンにも優勝にあと少しのところまで近づいていました…

…そう、ブッフバルトのゴールでシュトゥットガルトが2-1でレヴァークーゼンをリードするまでね。帰り道でニーバウム会長が「もしかしたら、私たちが今ドイツチャンピオンにならなかったのは良いことかもしれない」と言ったんだ。期待が高くなりすぎれば、私たちがその後したような強化はできなかったかもしれない。その後のプロセスの一部だったんだ。

 

しかし平坦な道ではありませんでした。91/92 シーズンの準優勝と92/93シーズンの欧州での成功の後で、93/94シーズンは難しいものになりました。その原因は?

困難に直面した時は、基礎に立ち返らないといけない。それを学んだ年だった。チームは継続的に補強していたが、国際的に有名な選手を連れてきてもすぐにチームとしてまとまるわけではない。選手間の差が大きくなってしまうし、期待も大きくなる。良くないシーズンだったが、翌年のために重要な時間でもあったかもしれない。

 

困難についてはまた少し後で触れますが、それが1995年6月17日のみんなが待ち望んでいた歓喜に繋がりました。しかしそれはその数週間前の出来事からは予想できないものでした。25年前のシーズン最終日について、何を覚えていますか?

プレッシャーは甚大だった。自分たちの試合に勝てば、チャンスがあることも分かっていた。ブレーメンはアウェイでバイエルン・ミュンヘンと戦うという状況で、オットー・レーハーゲルがバイエルンの新監督だった。それも結果に影響したよ。バイエルンは何とかシーズンを良い形で終えたかったんだ。ミュンヘンでゴールが決まるたびに、観客席に歓声が広がった。だからすぐに「何かが起きた。行けるぞ!」と分かったんだ。最後に観客がピッチになだれ込んできたのは、信じられないほど感動的だった。君もピッチにいたかい?

 

はい、当時はラジオで働ていたので。なぎ倒されそうで怖かったのを覚えています

私も押しつぶされるんじゃないかと思ったよ。だからなんとか脱出して、人を押し退けて出入り口にたどり着いたんだ。

 

タイトルを勝ち取るまでのプレッシャーはどのようなものでしたか?

ゲルト・ニーバウム会長が大きな目標を公言したのは当然のことだった。財政的に、チャンピオンになることは非常に重要だったんだ。チャンピオンズリーグに出られるのは優勝チームだけだったからね。そして投資を回収できるのはそこだけだった。当時のクラブとしてはバランスを取るための手段だったんだ。

 

 

現在のサッカー界で成功するために、監督には技術的なノウハウ以外に何が必要でしょうか?

全てが正しくないといけない。チームの構成、ピッチ上の戦術的コンセプト、練習のインテンシティと頻度。非常に優れた同僚も必要だ。真の友人となったミヒャエル・ヘンケがそばにいたのは私にとって幸運だった。私たちは本当に信頼しあっていた。それにミヒャエル・マイヤーともとても近い関係だった。ヘンケとマイヤーとは安心して話ができたし、それが困難に直面した時に必要な強さを育んでくれた。

 

教師としての教育は多くの個性が集まるチームを率いる助けとなりましたか?

私は人生の早いうちにコースを選び、達成したい目標を立てていた。1971年にバーゼルのヘルムート・ベントハウスに電話して練習参加していいかと聞いたんだ。当時はまだ監督も電話帳に載っていたからね。そうやって自分に運命を託して、プロサッカーの世界に飛び込んだんだ。同時に教師になるためのトレーニングもして、それは後々役に立った。サッカー選手としての全ての経験も監督としての手助けになったよ。人々の感情を読み取るのが重要だ。試合に負けた時、私は大抵チームに厳しくするのではなく選手たちを理解しようとしたよ。

 

そしてあなたは選手たちの長所を活かそうとしました。人々から批判されることは意識的に受け入れていましたか?長い間国際的なトップクラブの標準となった4バックを導入せず、スイーパーにこだわったことで「現代的」ではないと批判されましたよね。

最終的に重要なのは、チームにいる選手たちだ。彼らに最適な形を見つけないといけないし、選手たちに実行できないシステムを導入することはできない。ドルトムントで4バックを導入したかったが、うまく行き始める前に私はクビになっていただろう。1991年にはブンデスリーガではまだスイーパーがディフェンスの後ろにいて、二人のマンマーカーが相手のフォワードについていた。最も重要なのは成功をもたらす感覚を持つこと。パズルのようなものなんだ。監督は頑固ではなく、柔軟でないといけない。最後に正しさを証明するのは成功だからね。

 

 

 

1994/95シーズンのリーグで素晴らしいスタートを切った後、DFBポカールで延長戦の末にカイザースラウテルンに3-6で敗れました。タイトルを勝ち取るうえで、あれがキーになりましたか?当時フランツ・ベッケンバウアーは「あのディフェンスで彼らがチャンピオンになることはない」と言っていましたが。

その質問で記憶が蘇ってきたよ。悪夢だった。ベッツェンベルクはいつも難しいスタジアムだったが、あれは酷い敗戦だった。それでも切り替えて、精神的な強さを見せたんだ。あのような試合の後で立ち直ることができれば、それは困難を乗り越えられるということさ。

 

マティアス・ザマーを中盤からディフェンスに下げた理由は?あのコンバートが優勝のためのカギだったかもしれません。

実はジュリオ・セザールを使って4バックにしたかったんだ。しかしうまく行かなかったので、彼をスイーパーにすることにした。ジュリオ・セザールはセンセーショナルな選手で素晴らしい仕事をしてくれたが、コミュニケーションに問題がありチームのかじを取ることができなかった。信じられないほど速く非常に知的でタックルに強いジュリオ・セザールが保険になってくれるので、マティアスをディフェンスで使うか、自由を与えるか、前でプレーさせるかの選択肢があった。組織的なディフェンスが、その後攻撃がうまく行くための土台になったんだ。

 

フレミング・ポウルセンがカイザースラウテルン戦で負傷し、1995年の3月にはステファヌ・シャピュイサ、第31節前にはカール=ハインツ・リードレも離脱しました。

あれは難しい時期だった。チームの最高のストライカーたちを失ったのは、大きな損失だったよ。幸いにもボルシア・ドルトムントには優れたユースチームがあったから、私はラース・リッケンとイブラヒム・タンコを昇格させ、幸運なことに2人とも図太い神経を持っていた。ラースは特別な才能があり、冷静さを保って強いフィニッシュをすることができた。タンコは少し小柄だったが、エネルギーがあった。プレッシャーに耐えられる2人の若手がいたことは監督として幸運だったよ。同時に彼らには失うものが何もなかった。

 

しかし第29節で直接のライバルであるブレーメンにアウェイで1-3で敗れ、リードを失ってしまいました。あの時の心境は?

シーズンの中にはいくつも苦い経験がある。ブレーメンはいつも熱心なサポートを受けられるホームで強かった。大きな後押しを受けていたんだ。そしてレーハーゲルは優れたモチベーターだった。私たちは必要のない敗戦を喫したが、可能性がある限り監督として優勝を勝ち取れると信じていたよ。

 

自分自身を信じていましたか?それとも誰かにアドバイスを求めた?

もちろんミヒャエル・ヘンケとミヒャエル・マイアーとはたくさん話をしたが、私が責任を持って決断をする必要があった。私は自分だけで物事に対処し、決断するタイプなんだ。他者から影響を受けたくないので、監督人生で意見交換をしたことはあまりない。

 

31節のフライブルク戦、32節のグラートバッハ戦は引き分けでした。プレッシャーは最高潮だったのでは?

攻撃的なポジションに怪我人を抱えていたことは、いつも忘れられている。どちらの試合も勝つためのチャンスは十分にあったんだ。あのシーズンは困難の連続だったし、プレッシャーは甚大だった。

 

最終節の1試合前のデュイスブルクでは、全てが失われたように見えました。0-1のビハインドで、ブレーメンはカールスルーエを2-0でリードしていました。あのハーフタイムを覚えていますか?

リードされている時にチームを励ますのは普通のことだ。悲観的な空気を消すため、チームへの信頼を示すため、各選手のモチベーションを上げるためにね。「相手がもう一点取ったとしても、私たちは二、三点取る力がある」と言ったんだ。

 

そしてそれが現実になりました。デュイスブルクが後半開始直後に2-0にリードを広げ、最後はBVBが3-2で勝利しました。

あの逆転はファンタスティックだった。ミヒャエル・ツォルクがあの時も重要なPKを決めたんだ。そしてシュテファン・ロイターが2点を決めてクールに試合をひっくり返した。

 

ドルトムントの町は歓喜し、再びタイトルへの希望が戻ってきました。あなたもそれを感じていましたか?

新聞を買った時、ニューススタンドの女性がこう言ったんだ。「ヒッツフェルトさん、私たちならやれる!」ってね。人々の態度には励まされたよ。ドルトムントではいつも、ファンが後押ししてくれている感覚があった。真実の愛だ。バイエルンは成功に慣れており、多くのことが当然のものとしてとらえられている。ドルトムントではクラブを愛し、たとえ物事がうまく行っていなくてもBVBを後押しする。他のクラブではそうした体験は稀だ。

 

HSV戦は2点差以上で勝つ必要がありましたが、9分にメラーが低くカーブの掛かったフリーキックで先制しました。あなたにとっても予想外だったのでは?

そうだね、彼はもっと高く蹴りたかったんだが(笑)… 低いシュートだった。ラッキーなシュートだったよ。そしてラース・リッケンがすぐに2-0にした。

 

ファンはまるで同時に二つのスタジアムにいるようでした:体はドルトムント、頭はミュンヘンに…

向こうで何かあれば、すぐに分かったよ。ブレーメンはミュンヘンに行かなければいけないという我々にとって幸運な状況で、オットー・レーハーゲルがバイエルンの監督になったばかりだった。バイエルンが勝つか、少なくとも引き分けるだろうと思っていたよ。しかし私たちが必要な結果を出すことも重要だった。

 

優勝のお祝いで覚えていることは?

みんなが幸せだった。私は泣きたくなかったが、プレッシャーが無くなり非常に感情的になっていたね。最大の成功を手にして、何百万人ものファンを喜ばせたんだから。シャーレを掲げられたのは信じられなかった。他にない幸福感だったよ。
インタビュー:ボリス・ルパート

 

 

BVB監督としてのオットマー・ヒッツフェルトの通算成績:

  • 273試合
  • 149勝
  • 60分
  • 64敗
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